【日記】手を動かし口を動かし心をつなぐ

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    以前よく「ながら仕事の贅沢時間」というシリーズでワークショップをやってたことがある。
    ワークショップと言っても場合によっては先生もいない、ユルいもので、基本は何人かで比較的単純な作業・・・おむすびを結ぶ、パンを焼く、料理を作る、縫い物する・・・等ゝ割と生活に直結する単純な作業をみんなで“口”も動かしながらしようというコンセプトだった。

    最近はというと「ながら仕事」も含めてイベントを開催することがなくなって久しいのだけど、とある素敵な女性が自宅スペースで「ゆんたく※」をしながら手仕事をし豊かな時間を共有するという趣旨のWSを開催するというので、久々に「ながら」精神を思い出して参加して来た。

    ※ゆんたく:沖縄方面の方言で「おしゃべり」というような意味

    急にお堅い話になるが、今の時代、先進国での暮らしからはこういう「手も動かしながら、会話も楽しむ」というような時間が極端に奪われている。
    機械が進化して、こうした作業のほとんどを機械が担うようになった。
    さらにはほとんどの大人が「労働力」として会社という戦場に駆り出されていてあまりにも“忙しい”。

    さらに深刻だと思うのは、長い歴史の中で人々の暮らしを支えて来た、人と人とのつながりを助ける様々な枠組み/共同体が、近代になり急速に無くなったり有名無実化していることだ。

    “家族”はそれまでの大家族から核家族化し消費効率?の良い形に特化した。
    「村」や「町会」などの在り方もなくなるか、様変わりして有形無実化しているところも多い。

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    一方で、現代人が駆り出されている「会社」での人の営みは“生活”の場とはかなりかけ離れたものになっていることが多いのではないか。
    人の幸せだとか 平和だとか 環境保護等々の、生活の場であれば重要視されるはずの価値観が退行し代わりに、ざっくりと言ってしまえば「儲ける」ための行動のみが重視される。
    家庭に戻ればしないような“ちいさな悪”も、会社では「儲けるためならしかたがない」という理由でほとんどノーチェックで行なわれているのが現実ではないだろうか。勝つためなら手段を選ぶことはできない、個人の倫理観は役に立たない。(きちんとしたリサーチをしているわけではないので正確なことはわからないが・・・おそらくリサーチしようとしてもなかなか正確にはできない分野だろう)

    大半の大人が人生のほとんどの時間を、会社で、兵士とし過ごしているのだ。
    そして、それが現実に家庭を支え、さらには経済を回しているという意識から現代人は、会社中心の経済活動こそが「生活」であり、全ての基礎。その前提無しに平和だとか、幸せ、環境保護などを語るのは空疎である・・・と、極論すればそのように逆転的に考えるようになっているように感じられる。

    現実の一側面を見れば、それは“圧倒的”なくらい正しい。現にそう考え行動していれば今の日本では生活していける。

    しかし、一方でそれは・・・大きすぎる危険性を持つ価値観でもある。
    マネーは人だけが、正確には人の意識だけが認識し得る、完全なフィクションなのだから。

    マネー経済とその上に構築された機械~コンピュータ中心の世界では“豊かさ”は“便利さ”とすり変えられ、いつしか人が機械の都合で行動するようになり、人間だけに許された高度な手仕事等の技術は全て商売のための資本となりその多くが粗末な形で機械化された。
    機械化によって作られたものは全て「商品」として流通していくことになる。
    人の生活のための行為が、手仕事から「消費」にすり替わり、手仕事と共にあった豊かな時間が奪われたのだ。
    ほんの100年か200年くらい前なら、人が自分の手で衣服を縫わなくなるということは誰も想像しなかったのではないだろうか。

    また、人の意識/心を形成するのに重要な役割を果たす、個人の“外”から得られる「情報」も急速にフィクション化した。空を観て、木を観て、大地を観て、他者を観て、そして五感等から得られる直接的な自然からの情報だけで暮らしていた動物的な段階を最初期とすれば、今はそこからははるかに遠く遠く離れ、全ての情報を間接的にテレビラジオやインターネットといったメディアから得るだけで生活ができるようになっている。「食べる」という他者を殺す行為は「消費」に置き換わり、何を消費するかの判断の元となる情報は「広告」から得る。

    裏を返すとそれは、一般的な人の生活は、全て消費財や広告、政治等のフィクション、すなわち人の手によって“支配”されていることを意味する。(余談だが、それは制御されている=安心であるという状態の別の姿・・・避けようのないコインの裏と表である。為政者や商売人は、必ずこのコインの裏と表の顔のどちらかを使ったレトリック/広告によって自らに都合の良い方向にものごとを誘導しようとする。そして気がつけば、「支配」の側面が肥大化していつしか暴走する。というか現代はまたすでに暴走している。)

    単純にそれを悪いと言うつもりは全くないが、私は、馬と車を両方駆るような、空と星を見て時を読み同時にコンピューターによるシミュレーションも活用するような、経済のツールとして通貨も使うが心と心/体と体による直接的な循環も同じくらいある。そういう奥行きのある生活こそがこれからの時代の豊かさだと思う。

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    今回の手作業は、ハワイ古来の伝統工芸ラウハラのブレスレットを作るというものだった。
    ラウハラとは、ハラという木の葉で編んだ作品のこと。
    このハラというのは日本ではトカラ以南の沿岸に自生しているパイナップルによく似た実をつけるアダンという植物のこと。田中一村の絵が好きな方ならすぐにわかる「あの」植物だ。
    今回はハワイの伝統的な手法にアレンジを加え、日本人が昔から大切に生活に生かしてきた「大麻」の葉も編みこみ、ブレスレットを作った。

    作り始めから完成まで数時間。(案の定ぼくが一番遅かった・・・)
    黙々と手作業をしたり、手を止めて会話をしたり・・・
    そこには今の時代が忘れつつある人と人、人と自然が直接触れ合う、手の感触を確かめながらの作業と、心の感触を確かめながらの会話の時空がある。
    なかなか文章では伝わらないし、素朴なものだけど、そこには忘れてはならない「幸せ」や「豊かさ」の祖型の一つがあるように思う。

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    人と人を、法律とかの人為的な枠組みを超えたところで真の共同体~ファミリー、ハワイの言葉で言う「オハナ」にするのは、やはり会社での営みだとか、または、将来への不安や危機感だとかからではなく、まずこういうところからなのだと思う。高度な政治や技術との共存のためには、それはもう想像もつかないほど難しい問題があるけれど、立ち返る原点はこういう時間であってほしい。
    そんな思いをこめて、まだまだ考えがまとまらないままではあるが文章にさせていただいた。

    主宰の方、場所を提供してくれた方、そして同じ時間を過ごした方々。ありがとう。