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アジアの音 ~「ドラムス&ヴォイセズ 2017」のショーケースを観てきました

    「ドラムス&ヴォイセズ 2017」

    「ドラムス&ヴォイセズ 2017」というプロジェクトが始まっています。これは

    “2013年に東南アジアと日本のアーティストが集まり、ワークショップを積み重ね、ベトナム、カンボジア、ミャンマー、タイ、ラオス、ブルネイ、そして東京とツアーした”
    https://www.facebook.com/ドラムスヴォイセズ-639756686065098/

    タイの太鼓というプロジェクトの2017年度版で、タイ、ベトナム、ミャンマーといった東南アジアの国々から打楽器を中心とした楽器の奏者が集まり、日本からは奄美出身の歌手“里アンナ”さんが参加しています。

    先日、そのプロジェクトのショーケース(試演)が、浅草の「宮本卯之助商店」で開催されたので観てきました。

    私自身は、里アンナさんの情報サイトでこのイベントを知りました。
    里アンナさんは、ポップスのCDを何枚も発売していたり、ジャズフュージョンバンドでも唄っていたり、あるいはミュージカル「レ・ミゼラブル」にも出演したりと西洋音楽畑での活動を中心にされていましたが、最近は島唄のみを、奄美三味線、奄美竪琴、そして自らの声でアレンジしたCD「紡唄」を発売したりと、彼女の原点である「奄美島唄」に、どう回帰/再生していくかを試行錯誤するかのような活動が目立っています。今回のショーケースもそうした流れの中にあるのだろうと思わせる実験色の濃い内容でした。

    『アジアの民族音楽の感触』

    ミャンマーの太鼓演奏を聴いていると、まだ荒削りなアンサンブルながらも、確実に「これがアジアなんだなぁ」という感触の音で溢れています。
    太鼓の「ポン」という一音の響きの中に、ゴングの余韻や倍音の中に、里アンナさんのボーカルのグイン(奄美流のコブシ)の中に、そしてアンサンブルの間や呼吸の中に。
    日本で(伝統)邦楽と呼ばれているジャンルとは“まるで違う”のだけども、でもやっぱり“雰囲気が似て”いて・・・それぞれの国や地域の文化の独自性と、それらの間のゆるやなグラデーションのある強いつながりとが同時に混在する、アジア的としか表現のしようのない文化/生命圏の存在を感じるのでした。

    民族音楽とその地の人々の暮らしあり様は、合わせ鏡のように、密接な関係を持っています。というよりも今でこそ大分変わってしまっていますが、本来の民族音楽は人々の暮らしそのものであると言えます。私達は民族音楽を通して、その地のことを非言語のイメージとして知ることができるのです。だからこそ、私は今回のこのショーケースの演奏を通じて、喜びとか悲しみというような抽象的な印象だけでない、より具体的な「アジア」のイメージを感じ取ることができたのでしょう。
    今回は「ドラム」という、プリミティブな楽器が中心になっていることで、より一層その感触が純化されているようにも感じました。
    「ゆらぎ」や「呼吸や間合い」「複雑な倍音」「歪み」などの要素の洪水のような音楽が、時には静かに心地よく、時には力強く激しく体に響いてくるのに身を任せる、極上の時間でした。

    『西洋とアジア』

    ミャンマーのゴング思ったのは、昔ならなかなか簡単には交わることのできなかったであろうそれぞれの国や地域、シマ(集落)の音楽を、結びつけるのに大きな役割を果たしているのが、現代のグローバル社会であり、それらの土台となっている「西洋」的な手法による音楽へのアプローチなのではないかということです。

    おそらく、それぞれの国や地域の中だけで、その地域の音楽にしか触れてこなかった人達では一朝一夕ではこうした融合は生まれないでしょう。(今回のプロジェクトのためにメンバーが集まったのはほんの数日前だと里アンナさんが話していました)
    西洋音楽はその成り立ちからしても、数学的な理論や記号化によって、異文化間のコミュニケーションを容易にしようというする性格を持っているように思います。(ただし、西洋音楽的なアプローチだけではアジア音楽を形成することはできませんし、双方が共通の言語/理論を理解できないと成り立たない=西洋化が前提という矛盾を抱えています)

    里アンナさんは先にも触れたように西洋音楽にも通じていますし、他の方もその国の音楽大学を出ていたりと、おそらく完全な民俗音楽畑の人ではなく、現代的な西洋学問的な音楽論にも通じている。だからこそ、こうした多国籍アンサンブルが実現できて、音楽というフィールドに、まだまだ無限に未知の世界に広がっていることを感じさせてくれるのだと思います。

    『EUR-ASIA』

    ベトナムの月琴それにしても、今回感じた「アジア」という世界はいったいどこまで広がる概念なのでしょうか? 地理的な水平軸だけでなく、時間軸や、文化、遺伝子等様々な軸でアジアというキーワードを辿っていくと、普段漠然と抱く「アジア」という言葉に対するイメージをはるかに超えるスケールになるのかもしれません。

    最近知り合った、キュレーターの渡辺真也氏の監督映画「SOUL ODYSSEY~IN SEARCH OF EURASIA」では、文字通り大陸をヨーロッパからアジアを横断して横たわっている、深く広大な人類のたどって来た道の足跡を監督自身が旅を通して探求していく様子が描かれていました。
    この映画を通じて、私達は、もはやアジアとヨーロッパの境界がなくなってしまうような、壮大なスケールで人類の物語をイメージすることができます。
    (ここでは深く触れませんが、その監督が今急速に「奄美」に近づいているのにも、何か強い必然性を感じざるを得ません。)

    アジアを、「中心」からみた「東方」という意味だとするのであれば、その境界は、時代によって大きく変化していただろうし、今も変化し続けているのでしょう。最も大きな視座に立ち、『アジア=東=日の出=陽』『ヨーロッパ=西=日の入り=陰』であり、そして常に光と闇は繰り返すのだというコスモロジーがあるのであれば、 アジアとヨーロッパは実は常に一つであり、片方のみについて探求してもこの世界の真相は観えて来ないことになります。だからこそ我々は「ユーラシア」についてを、アジアの東の果て(=西のさらにその西)に住む人として探ろうとするのかもしれません。

    『AIの時代に人類の旅の足跡を辿る』

    ベトナムの楽器AIの急速な普及によって「人とは何か」という哲学的な問いが今また大きく浮上してきています。民族音楽は本来、何千何万年という悠久の時間をまたぐ「人」の営みの積み重ねの果実としての「人智」または「叡智」と言えるものです。

    現代の西洋音楽を基礎とした音楽も、ある意味では民族音楽ですが、やはり文化人類史の中では文字(楽譜)や数学の普及以降に急速に発達した、組成の異なる音楽としての性格が強いように感じられます。実際西洋音楽的なアプローチを取り入れたアジアの民族音楽が、本来の性格を失っているように感じることは多々あります。もともと「デジタル」と親和性の高い西洋音楽と、それに対してアナログで、様々な歪みをも内包しようとするアジアのそれとは、容易には交わらないように思えます。

    近年の商業的な目的を持ったものとなるとその異質さはさらに際立ちます。何百何千何万年という「人の営み」の積み重ねを実質的に無視して、刺激的な映像や、言葉等、「生命としての、粗野で刹那的な欲求」のみに応えるための断片的な情報(=広告/商品)の一部となった音楽が氾濫しています。

    西洋産の現代の技術が進もうとしている果てにある世界について、深い考察に基づき解を出すことなど今の私には無理ですが、AIの普及によって期せずして沸き起こった「人とは何か、私達はどこから来たのか」という問いかけに対して、今回の「ドラムス&ヴォイセズ」のような、“アジア”の民族音楽の達人による取り組みは何か大きなヒントを与えてくれていて、これからさらにその役割は大きくなっていくのではないかなと、そんな期待を感じるステージでした。